2012年10月6日土曜日

エピローグ —しゅん編—


ひろきがエピローグを書いてくれたので、僕もアメリカ横断の旅の感想を書きたいと思う。

旅ってやっぱ良いものだなと、帰ってきた今改めて思う。
実際のところ、旅をしている最中は楽しいことばかりではないし、何かに対して常に感動してるというわけでもなかったと思う。
四人で旅をしているわけだからきっとみんな互いに不満の一つや二つはあっただろうし、みんながそれぞれの思い描いているような旅を100%できたとは思わない。
でも自分の好きなことを全部できようができまいが、満足しようがしまいが、そういうことは全部今となってはちっちゃい悩みだったなと思う。




旅をしている、今思えばそれだけで良かった。その非日常性が今となってはかけがえのないものだったと実感する。
毎朝目が覚めると、ひろきとのりとたっちがいて、四人で朝飯を食べたり食べなかったり。煙草を吸いにいく奴がいれば、トイレにこもったり、Skypeで彼女と話したり、ギターを弾いたりしてる奴がいる。ひとしきりパッキングを済ませ、車のトランクに荷物を詰め込んでその日はじめのドライバーを決めたら、音楽を大音量でかけて再び果てしない道の上を西へ西へと進んでいく。毎朝違う場所で「今日は何に出会うことができるのだろう」という期待と共に目覚め、毎晩違う場所で「明日は何が僕らをまっているのだろう」という興奮と共に眠りにつく。毎日がトラブルの予感と感動への期待に彩られ、その興奮は収まるどころか日に日に増していき、気付けば僕らの体の一部になっていた。
この旅がこんなにもエキサイティングで、今となっては終わってしまったことを嘆くほどのものになったのは、「海外に行ったから」でも「アメリカだったから」でもなく、これがアメリカ大陸横断のロードトリップだったから。バスに乗ったわけでもなく、電車に乗ったわけでもなく、飛行機に乗ったわけでもない。僕らは確かにハンドルを握り、自分たちの手でアメリカ大陸4522マイルの道のりを走り切り、大陸を横断したのだ。ロスに到着し、西海岸の海の中に四人で手を繋ぎながら両足を入れたときの感動を僕は今でもはっきりと覚えている。いつまで経っても色あせない感動というのは存在するのだ。

日本に帰ってから早3週間。僕の生活はすっかり日常の中へと戻り、今は毎朝同じベッドで目覚め、毎晩同じベッドで眠りにつく日々を送っている。アメリカ横断の時にあったあの「はっきりと前に進んでいっている」という感覚が今は懐かしい。いや、決して暢気に懐かしんだりはしていない。僕はあの感覚を日本の中で必死に探している。
でもそれは見つかりっこない。だって僕は今、日常の中にいるのだから。
カリフォルニアで感じたあの解放感をできるだけ日本に持ち帰って生活をしたいと思っていた。レコードをかけてコーヒーを淹れて、時間が流れるのをゆっくり待つようなそんな感覚を持っていたいと。
でもそれはすごく難しいことだ。だって僕は今、東京の街にいるのだから。

ただ、決して悲観的になっているわけではない。アメリカで感じたあの興奮や感動は僕が撮った写真の中に、書いた文章の中に生きているし、アメリカに対するこの思い入れはまた僕をきっとあの広大で肥沃な母なる大陸に連れ戻していくだろうから。そうしたらまたそこから新しい旅をはじめていけばいいだけの話だ。そうやってまた日常と非日常との境界線を越えていきたい。

2012年のアメリカ横断の旅は無事に終わった。次は一体どんな人とどんな場所に行けるのか、何が僕を待っているのか、そして自分はどこに向かっているのか、考えただけで今から楽しみで仕方がない。最後にジョージア・オキーフのこの言葉を紹介してこのブログを終えたいと思う。


Where I was born and where and how I have lived is unimportant. 
It is what I have done with where I have been that should be of interest.


Georgia O'Keeffe





アメリカ横断の旅の実現を可能にしてくれた全ての人(特にひろき、たっち、のり)、そして全てのものにありったけの感謝を込めて。

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